T.S.シュタイナー『日本見聞録』

名前は「TSしたいなあ」が語源です。ルドルフ・シュタイナーとT.S.エリオットは無関係です。

論立てが乱暴で文章が独りよがり、それは童貞の論文、童貞論文

(”金色のガッシュ!! 完全版①”. p. 8. 雷句誠. BIRGDIN BOARD Corp. 2008/7/2)

 

 上図は、”金色のガッシュ!!”冒頭の主人公、清麿の独白である。

 主人公の優秀さを、主人公が「MITの首席卒業生の論文」を「時間つぶし」に使っていたことにより表現している。

 これはよいのだが、その後に続く「でも…中学生に理解されちゃうんだ…」「たいしたことないよな…」という文言について、私は常々異議を申し立てたいと考えていた。

 

 

 

中学生でも理解できる論文を書けることってめちゃくちゃすごいことなんだからね!!!!?

 

 

 てんぱり過ぎてツンデレみたいになってしまったが、決してツンデレ的反語ではない。鈍感系主人公の如く文字通りに受け取ってもらいたい。

 論文にしろブログにしろ、公表する文章というものは、誰かに伝えるために書かれているものである。論文と聞くと、敷居が高いような気がするし、なんなら専門的な知識がないと理解できないものが多いのも確かだ。しかし、専門外の人間でも理解できる方が本来望ましいのだ。「中学生に理解されちゃう」ことは、執筆者の優秀さを示す事実にはなり得ても、能力を貶めるものにはなり得ない。

 

 なぜこのような話をしているのかと言うと、私が内部院試験の面接において専門外の先生に自身の行う研究の内容を全くうまく伝えられなかったためである。

 頑張って面接官の先生に研究内容を説明すると、先生たちの頭上には「?」が見え、その?を解消しようと言葉を尽くすと更に?が増えて行く悪循環に吐き気を催しながら面接を終えた。何を聞かれどう答えたのかの記憶も、面接に行く前の根拠のない自信もなくし、言い表しようのない不安だけを持ち帰ってきた。頭の中ではずっとデレステのイベント楽曲『モラトリアム』が流れていた…

 

連れ去っていいよ 誰も知らないとこへ

さよならね モラトリアム

ときめきなんて 過ぎ去ってしまうモノ

 (”モラトリアム(GAME VERSION)” 双葉杏、夢見りあむ)

引用元:

www.youtube.com

双葉杏かわいいなぁ、ちくしょう…

 

 博士課程前期は、モラトリアムのボーナスステージなどと称されることもある。内部院進であれば、基本的には卒論さえしっかりと取り組めば進めるものであり、学生というモラトリアムの延長として進学する方もいるためである。

 しかし、モラトリアムに意志とは関係なく、別れを告げなければいけない、内部院進が”ままならない”者もなかには居るのだ。

 

そんな者たちはどうすればよいのだろうか…私は先達として、私の後に続く者たちに、道を示したい

 

アイドルマスター博士になろう‼

 いや、錯乱したわけではない。私は至って正気である。

 私は、これは博士前期に進めない者の確かな救済になり得ると考えている。胡散臭いかもしれないが、こう提案しているのは、アイドルマスター博士を名乗ることで発生する明確なメリットがあるためである。主な3つのメリットを以下に示す。

 

 

 

 

1.マスターと博士を名乗れるようになること

 修士号は博士課程前期へ進学し、所定の単位を修得し、修士論文の審査を受け通過しなければ取得できない学位である。更に博士といえば、日本では総人口の内、約0.4%しか居ない、非常に取得難易度の高い学位である。それを、名乗れるようになることはとても名誉あることなのだ。博士号を取得していないにも関わらず博士を名乗ることは、本来、学歴詐称(別名、ショーン系詐欺)である。が、アイドルマスター博士と名乗ることは、人生のどの場面においても有利に働くことはなく、キャラクターとして認知してもらうための方便であると捉えられることの方が自然であり、この論理であれば、自称アイドルマスター博士を罪にとうことはできない。

 納得できない者も居ると思うので、具体例を挙げよう。就職活動においてどのように作用するのか考えてみる。

 

面接官

「では、あなたの自己PRをしてください」

就活生

「はい、私はアイドルマスター博士です。アイドルマスターについて高度な知識と技能を有しております!346プロダクションに所属しているアイドルのプロフィールを全て暗記しており、スマホゲームアプリケーションである”アイドルマスターシンデレラガールズ スターライトステージ”内のイベントにおいて過去に高い成績をあげています」

面接官

「…そうですか、」

 

 こんなことで軽犯罪法、あるいは詐欺罪の判決を受けてはたまらない。裁判官だって被告のあまりの情けなさに涙を流し、人道的な判決を下す筈だ。

 つまり、諸々の恥をかき捨てればマスター(修士)と博士を名乗ることができるのだ。

 

 

 

2.研究は興味関心を持つものに対して行うべきである

 研究をするにあたり、研究対象を好きになること、研究対象に対して無限の好奇心を抱くことは研究者の第一歩と言える。強い好奇心を抱くことはモチベーション維持とよりよい研究をする上でとても重要なのだ。

 強い興味関心をもって研究対象について考えて行くことは、対象の新たな課題の発見につながる。そうした発見はその分野に新しい視点を与え、学問分野の発展に大きく寄与することに繋がる。そして、研究を長く続けて行くとき、研究者に最も求められるのは真理を求め続ける強靭な精神と肉体である。モチベーションはこの内前者にポジティブな影響を与えることで知られている。

 本当の学位はもらえなくとも、研究者としての喜び、誇りを得ることはできるのだ。

 

 

 

 

3.霧矢あおい

 アニメ”アイカツ!”に登場する霧矢あおいは「アイドル博士」として知られている。もしアイドルマスター博士として実際に学位を授与されるときが訪れれば、高確率で霧矢あおいが、我々の論文を査読するということである。あるいは、彼女の指導の下、アイドルマスターマスター(修士)になる者も現れるということである。

 指導教諭と学生とは、ときに「親」と「子」に例えられることがある。アイドルマスターを専門的に学ぶことは霧矢あおいとの親子関係を疑似的に体験できるようになるのだ。

 

 

おわりに

 ここまで読んだ方は気付いているかもしれないが、このブログの記事は全く読む人間への配慮が足りていないものになっている。アイドルマスターについて全く知らない方にとっては意味のわからない話が長々と続き、かつ話の行く先もガッシュからアイマス、アイカツとあっちこっちに行き、まとまりはない。

 

 「論立てが乱暴で文章が独りよがり」

 

 担当教員に言われた言葉である。

 この警告を胸に、これから私は「アイドルマスター博士」を名乗って行こうと思う。

俺が…!俺たちがアナコンダだ! 『俺たちのアナコンダ』感想

午後ローの思い出

 テレビ東京で視聴率の悪い昼の時間を占拠し、吹替もつけず、ふっる~いアクション映画を垂れ流していた「午後のロードショー」は、インドア小学生たちの悪友だった。勇気とか、人生の指針とか、あるいは教養とか(教養としての映画みたいなのを勧めたがる人種は大嫌いだ)、そういう身になるものは何も教えてはくれなかったが、親に禁止されている暴力的なコンテンツと少しエッチな話を、肩に腕をまわして親しげに語ってくるそんな放課後の悪友だったのだ。彼から教わった、水着のお姉さんがセクシーなサメ映画とだらだらと展開する西部劇映画は今でもよく見ている。

 先日、「俺たちのアナコンダ」を見に行ったとき、ふと彼のことを思い出したので、この映画とともにノスタルジーに浸らせてほしい。まあ、タイトルからしてそういう映画なわけだし。

 

ジャック・ブラックなんだ

 トレーラーを見たときの第一印象はこれだった。コメディアクションね、という気分。そんで相方がポール・ラッド。コミカルデブと情けない感じの二枚目の組み合わせの安定感たるや。大きな蛇が出てくるだけの映画で続編作りすぎだろとは思うが、ニヤニヤしながら観に行くことを決めた。

 当たり前だがレイトショーの枠しかなかったので20時スタートのチケットを買い、劇場に入ると、意外と人の入りがよく、明らかに同類だろという、眼鏡をかけた細長いサブカルおじさんと、ポテチを持ち込んでばりばりやってるデブ、ヒッピー崩れ、ドイツ人の父親とその息子たち6人という布陣が待ち構えていた。日常生活で見かけることのない人たちに、巨大な蛇の影を川面に見たときのような恐怖を覚えた。

 私は6人のジャーマンキッドの中でも群を抜いてやんちゃそうな子の前の席だったので、案の定後ろからガンガン椅子を蹴られ、変声期前のドイツ語を聞きながら、予告を見ることとなった。彼らが何の話をして、何で笑っているのかは全くわからなかったが、唯一ネットミームで笑っているときだけは理解できた。

 

「俺たちのアナコンダ」は「ドラゴンクエスト YOUR STORY」の対義語

 「ドラゴンクエスト」のCGアニメ映画に「お前の話だぞww」と笑われたのは記憶に新しい(私は彼らを絶対に許さない)。そう考えると、「俺たちの…」という言葉はとてもあたたかい。内輪ネタ万歳、地元最強、チームトモダチ!製作陣のアナコンダへの愛が詰まった100分だった。

 無印版のオマージュたっぷりで(アマゾンに映画を撮りに行くという設定はその最たる例である)が、そこに依存し過ぎることはなく、よくできた映画だった。少なくとも私と、近くに座っていたドイツパパは楽しめた。私と彼の笑いのツボは似ているらしく、結構同じところで笑っていた。劇場の中に緩い一体感があった。

 

 若い頃ショートフィルムを共に制作したB級映画好きの仲間たちが、年をとり各々人生で小さな挫折を経験していた。それぞれが自分の立っている現実に悩み、昔撮ったショートフィルムに目を細めていた。そんな中、俳優(ちょい役ばかりだが)をしていたポール・ラッド演じるグリフが「アナコンダ」の権利をもらったと言って仲間たちを唆し「アナコンダ」のリブートを撮影しに行く。製作を通して、彼らは当時の活力や友情を取り戻していく、大まかに言えばそういうプロットだ。ちらばった小さな笑いとびっくりで場を持たせつつ物語は進んで行く。

 ネタバレになってしまうので色々省くが(ネタバレを気にするような映画でもない)、ジャック・ブラック演じる主人公ダグが映画を撮影しに、結婚式用のショート(フィルム)ムービーをつくる仕事を休み、アマゾンへ旅立つ直前に息子から貰うオスカー像を模したトロフィーには「最も偉大なダグ」と刻まれているのは象徴的だ。「最も偉大な父」ではないのは、彼が獲得するのが尊敬される父親像ではなく、自分のために人生を使う喜びであるからだ。いい年したおじさんおばさんが青春をもう一度っていうのは傍から見れば痛々しいのかもしれないが、当事者にとってそれは大真面目に価値あるものなのだ。

 

 アル中カメラマンのケニーとアマゾンの蛇使いサンティアゴがこの映画のお気に入りである。酒を飲んでいたせいで、仕事をぽしゃり信用を失ったケニーは終始ろくでもないことしかやらない。約束の遅刻とかドタキャンとか平気でやってくるタイプだ。そんな彼と仲良くなったのが、人間嫌いで蛇が親友のサンティアゴ。得たいが知れなくて話し方が怖いのだが、仲良くなればとてもいいやつである。

 

観終わって、

 長いエンドロールの最後にSONYの文字が出ると、劇場に明かりがついた。大きく伸びをしながら劇場内をぐるっと見ると、みんなニヤニヤしながら出る準備をしていた。ジャーマンキッドが騒ぐ中、パパさんは静かに笑っていた。ヒッピーは寝ていた。お前は何しに来たんだ。

 

 午後ローで初めてアナコンダを見てから何年経ったのだろうか。子どものときの友人がテレビに出ていたような、そんな感覚で知った映画だった。目下苦しんでいる卒論は一歩も進んでいないが、何も考えずに映画を観る喜びを思い出した。

学マスやって居たスマホから烟が出だした(辞世の句)

 実際には煙は出ていない。

 が、最近「学マス」をやっていると、メダマヤキを焼けるくらいにはスマホが発熱し出す。文字通り、手を焼いている。

 

 スマホから煙も出ていないのに、なぜこのようなタイトルにしたかと言うと、これが今回の本題と関係するからである。

 

 尾崎放哉と学マスをやる!

 

 彼と学マスを一緒に遊びたい。

 学マスは一人で遊ぶものである。当然私も一人で遊んできた。ニタニタしながら電子紙芝居を見てるのを、他人に見せびらかす趣味は私にはない。ただ心の中の尾崎放哉ならば、私がどんなに気持ち悪い顔をしていても、「弱い男が画面を見つめて居た」みたいに詠んでくれるだけなので、個人的にノーダメである。

 私は勝手に楽しく学マスをやるので、彼に横から、あーだこーだもの悲しくもおかしいことを言ってほしいのだ。一人遊びも、極めると一人遊びでなくなる。

 

*尾崎放哉の句を恣意的に読解していくので、尾崎放哉の世界観をまっとうに愛している方は以下は読まない方が良いだろう。

 

ということで、さっそく見て行こう

うおっ、でっか

 

 つよつよ最強イモウトこと、花海佑芽である。公式サイトによればスリーサイズは91/60/85、実は腹筋もばっきばきで、アイドルとしての潜在能力なら登場キャラ中トップ3には入るであろうという回転おむすび、花海佑芽である。姉とのライバル関係など、花海咲季とのシナリオを交互にやるとなんだかいい感じでシナリオを楽しめる花海佑芽である。

 そんな彼女に放哉先生は何と詠むだろうか。

 

放哉「すばらしい乳房だ蚊が居る」

 

 おお…

 たしかに、彼女の肌を餌が如く見る我々の視線は蚊のそれと近いと言える。蚊になった気持ちで彼女を見ているとなんだかイケナイことをしているような気持ちになる。ただ、オスの蚊は血を吸わない、見るだけである。画面ごしに見ることはできても触ることはできない私の気持ちまで汲んでくれた放哉先生には感心してしまう。

 

よし!次行ってみよう

うっす、ほっそ

 時空が歪んだんじゃないだろうかという細さ、一つ前のフトデカとのコントラストで風邪を引きそうにすらなるこの美少女は篠澤広である。あばら骨で大根を下せるともっぱらの噂の篠澤広である。ままならないのに、ママになってほしい少女、篠澤広である。ずっと一緒に居ると疲れそうだけど、その感じが癖になる中毒系薄幸美少女、篠澤広である。

 うすとほそのハッピーミルフィーユ天才少女に、放哉先生は何と詠むのか。

 

放哉「肉がやせてくる太い骨である」

 

 うーむ…

 これは放哉先生が体調を悪くして、痩せて来たときに自分の身体を見て詠んだ句である。肉が痩せてくると、むしろ骨の生々しさ、生命力みたいなものが強調されてくる感じがして、篠澤広の、病人じみた体躯とその奥に光る才能が上手く出ている気がする。また、3,5,3,5のリズム感と「やせてくる」「骨である」のライムっぽさが妙に後に残る。篠澤広のシングルにも似た中毒性である。サンフェ―デッドのMVめっちゃよかったなぁ。

 

 篠澤さん、色々言いたいことはありますが…まず体重を増やしましょう

 

よし次!

エッッ!!!

 これは、有村麻央である。Campas mode!で下着事情が心配になっちゃうような格好してるのに、周りから王子様だと思われてる有村麻央である。公式設定によると、身長157㎝、体重46kgなBMI痩せ型ヒロイン有村麻央である。エッ…いやかわいくてかっこいい、レヴューとか出ちゃうタイプのリトルプリンス、有村麻央である。

 さあ、放哉先生は何と詠む。

 

放哉「とっぷり暮れて足を洗って居る」

 

 おお~、

 そう詠まれると、アイドルのダンスレッスンや、後輩たちの面倒などで、方々で小さな体を精一杯動かし疲れ帰ってきた後、疲労でぱんぱんに張れた足を労りながら風呂場で洗う彼女の姿が見えました。本当にお疲れ様です麻央先輩。

 

次で今回は最後としよう

たまげたなぁ、

 

 伏見つかさの面倒くさくてかわいい女の子の書き方が存分に生かされたこの少女は、月村手毬である。ダダをこねて拗ねればこちらが折れると思ってるよわよわ練習狂は、月村手毬である。ストイックなようでいて、食事制限などは全然うまくできない叶えたい、ものばかりな月村手毬である。同期を寝ぼけてママと呼んでしまうおちゃめな月村手毬である。

 放哉先生は何を感じ取ったのだろうか。

 

放哉「叱ればすく泣く児だと云って泣かせて居る」

 

 わぁ、

 ここに来て畜生発言。ただ、相も変わらず、人の観察眼が深い。月村手毬のクールぶっていて実はクソガキっぽいムーブばかりしているところまで写真一枚から読み取る放哉先生には脱帽である。しかし、そうした素直なこどもらしさがなんだか可愛くてついいじめたくなってしまう感じもよくわかる。最後の最後まで放哉先生の言葉には驚かされてしまった。

 

みんなも学マスをやろう!

 

おわり

愛と希望の町と”かたい石”トーナメント

 競馬・競艇・競輪の3K全てに通じるギャンブル界のローマこと、川崎市多摩区登戸は、その地理的性質ゆえか、この駅近の多摩川河川敷に面白いおじさんたちが出現する。

 

 春とも夏とも言えない時期のことである、石と石とを執拗にぶつけ続けるおじさんを見かけた。気になって、この「石おじ」から近くとも遠くとも言えない位置に座り、しばらく観察していたのだが、「石おじ」は石と石とを片方が割れるまでぶつけ合い、割れなかった方を残し、新しい石とその石とをまたぶつけ合い…という風にして、どうやら硬い石を決める勝ち抜きトーナメントを開いているようであった。そして、それがトーナメントである以上終わりがあるわけで、石がほとんど無限に転がっている多摩川河川敷から、「石おじ」は表情一つ変えることなく、最後に勝ち残った右手に握る真っ黒い石を上着のポケットにしまって帰って行った。その間、同様に河川敷に居る他の学生や主婦らしき人達はおじさんの方を見ることはなかった。

 もしかしたら私にだけ見えた怪異なのかもしれない。そう思うと、おじさんの実在がとことん疑わしくなる。翌日、またその翌日にも河川敷を訪れたが、やはりというか「石おじ」は居なかった。おじさん観察をすると、時たまこのような白昼夢に似た体験をすることがある。おじさん一期一会である。

 

 夏とも梅雨とも言えない時期のことである、かぶいた色の帽子とシャツと半ズボンに長い靴下を履いたおじさんを見かけた。「かぶいた帽子のおじさん」は河川敷に訪れる様々な人に声を、というよりも説教をしていた。通行人はあくまでも通行人として、「かぶいた帽子のおじさん」の説教に対応することなく、足早々と通過して行く。一人、この無差別説教をしかける令和のプラトンに対して、暴言をぶつける学生が居た。これにはおじもたじろぐかと思ったが、むしろ嬉しそうに説教を続けていた。説教の射程圏内に入らないように、より遠目で彼を観察していたら、自転車を押したおばちゃんが私に話しかけて来た。

「あの人もね、寂しいのよ」

 おばちゃんは訳知り顔で言う。同業他社だった。私よりもよほどこの道において熟達しており、色々なことを教えてくれた。おばちゃんはおしゃべりで、「かぶいた帽子のおじさん」が居なくなっても尚話し続け、大学に行かずに働いている息子さんの話がいつからか始まり、5時をつげる鐘に急かされてスーパーのある方へと消えて行った。

 

 小田急線と南武線の通る登戸駅は、最近、駅前の汚い居酒屋やら中華やらを一掃し、高層マンションとおしゃれな飲食店をその上に建てている。駅の下にあるタバコを吸いながらコーヒーの飲めるドトールもなくなった。市は、登戸をドラえもんの居る武蔵小杉に変えたいらしい。先住民のおじたちの居場所は縮小されていた。しかし、これから登戸に住んで行くのは若い人たちなわけで、彼らのための街づくりは悪いことでは決してないのだ。ただ、居場所を失い抑圧されるおじを見る度になんとも言えない気持ちになる。おじたちが若者に疎まれるのは、彼らの行いや態度が悪いのかもしれないが、そういった態度に至るまでに何があったのかを無視して彼らを邪険に扱うのは、寂しいことなのだ。

 

 松竹から出た『愛と希望の街』という映画がある。『日本の夜と霧』で知られる大島渚が監督を務めており、松竹風に改題される前は『鳩を売る少年』というタイトルで、タイトルが示すように、川崎の貧しい鳩売りの少年の話である。プロレタリアートブルジョワジーとの間のどうしようもない分断の物語だ。まだ救いがあるのは、彼らは誠実な愛によって接続しようと試みていたことである。

 登戸のおじと若者の間には何の紐帯もない。おじの接続したいという感情が空回りを続け、自分たちの生き方を曲げられない中で軋轢が生まれる。それ故に若者から敬意を払われず、敵意の応酬が始まる。両者ぶつかり合い、無限にある石の中で一番硬いやつが決まるまで、分断は続くのかもしれない。

オナニーの語源になったオナン君の行動に「わかるってばよ」が止まらない

 旧約聖書の中に出てくるオナン君は、ある日兄が罪を犯して殺されて、元兄嫁タマルとの結婚を周囲に要求される。そして、いざコトに当たるとき、兄嫁タマルの中にソレを吐くことはなく、地面に垂れ流した。

 

わ…

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

わかるぅぅぅぅぅぅうぅ!!!ううっ、ひっぐひっぐ、うぅぅぅぅうぅ、えぐえぐ、うぁああああんんん!!!!お前絶対に童貞だろ!俺だよ!金閣寺の主人公も呼んで三人で鍋食べよう!!あっつい鍋食べよ!マジで!

 

 そう叫んだ中三の私は今も変わっていない。たぶん、女の子とそういう雰囲気になっても全力で逃げ出す気がする。いや、女の子にはめちゃくちゃ興味あるよ?お付き合いをするという体験だって一度はしてみたいし、えっちだってしてみたい。でも、たぶん逃げる。マリッジ・ブルーみたいなもの、限りなく透明に近いブルー。情けないったらない。

 情けないは情けないのだが、情けないなりに言い訳させてもらえば、つまり、我々は色々と考えてしまうのだ。情動のままに準備の整った女性に飛びつこうというときでさえ、そうして流される自分を客観視する理性が顔を出すのだ。

 ちなみに、旧約聖書の中には、その後の話も描かれており、死んだオナンに代わって、次にタマルの婿候補に挙がったのが、オナンの弟、三男坊のショタ(名前ではない)である。周囲からはおねショタが期待されたが、ショタとは子供ができず、タマルは娼婦を偽って、この三人兄弟の父ユダと関係を持つのだ。…こっわ、いやいやいやこっわ。泣くって、というか当時の私は泣いたよ。神話を今の価値観で見るのは云々とかはわかるけど、こわすぎるだろ。まあ、私は司教とかではないので、これら一連の話が何を表してるのかなんて分からないけどさあ、でも普通に分からない奴が読むとこわいよこれ。

 

 大学は高校に比べると存外暇で、散々時間を趣味に費やした高校生活から、更に趣味にかける時間が増えた。最近の生き甲斐は「バキ童」である。「刃牙道」ではなく、「バキバキ童貞」の方。「春とヒコーキ」の「ぐんぴい」に付けられたあだ名、というより自らを名付けた稀有な例と言える。

 高い頻度でアップロードされる彼の動画をとても楽しみにしている。そして、彼が童貞を卒業するとき、私はきっと彼を本当の意味で祝福できると思う。が、私は自分の身の振り方を改めさせられるのだろうか。

ペットを飼うこと

 最近、我が家(父、母、兄、私)では兄の強い希望から犬を飼おうかという話があがっている。兄はよく心得ているので、この話を私と父は暫く知らず、最も多くの金銭的また労働的な出資を行うであろう母を説得してから、生き物の世話というものには全く向かない鼻炎ぎみの我々に伝えたのだ(我々と言ったが、父には未だに情報が届いてなさそうであった)。

 

 私は動物があまり好きではない。いや、正確に言えば哺乳類のペットが苦手なのだ。馬術部で3年間馬の世話をしているときから感じていたことだった。幼稚園児、小学生だった当時の私と兄はカタツムリやらグッピーやらカブトムシやらを飼育(主な世話は母が)していた。しかし、哺乳類のペットを飼うことはなかった。そこそこ体格と脳の大きい生き物を飼うことには全く親しみがなかったという訳だ。私に至っては、5歳の頃、友人宅で子犬に尻を嚙まれて以降、犬というものが嫌いである。その後どうにか泣き止んだ私は、未遂で終わったが、その犬を殺そうと、食べさせてはいけないと言われていた人間用の飴をやったこともある。

 

恐怖心は人を容易く狂化させるのだ。

まずは踊れ、話はそれからだ

 『RRR』観てきた。面白かったので感想をだらだら書こうと思う。

 三時間もあるので観る前は久しぶりの大作に若干げんなりもしていたのだが、全然飽きなかった。戦闘シーンは見ごたえがあったし、途中飽きるかなとか思っていたドラマパートも突っ込みどころが多くて普通に楽しめた。全体通して、二分の一が戦闘シーン、六分の一がドラマ、残りの三分の一が歌と踊りみたいな感じだった。インドナショナリズムというか、アンチブリ帝の革命思想みたいなのがカタルシスでごってごてに強調されててびっくりしたけど、面白かったから映画としては正義。

 

 

 

 

以降、ネタバレを含みます

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 インド最強!!!インド最強!!!インド最強!!!インド最強!!!インド最強!!!インド最強!!!インド最強!!!インド最強!!!インド最強!!!

 

 

 序盤からマスキュリニティーの塊みたいな描写が続いて、結構アツい。主人公たちが無双する度に、そこだ!やれ!うぉぉぉぉ!ってなってた。インド人を虐げてきたイギリス人を主人公がインド的な力で滅多打ちにしていくカタルシス満載のシーンばっかりだけどそれがいい。銃とか使わなくても、こいつら二人だけでどうにかなるじゃんと思うくらい強い。サメ映画のサメ側が主人公みたいな、いや、サメ映画の主人公はサメだから普通にサメ映画と一緒か。

 

 個人的に一番好きなのは、これからどうなるんだというところでぶっつり切って、話と話の間を雑に

 

INTERRRVAL

 

 

という文字列だけで五秒使って繋いでいるところで,観たときは吹いた。こいつら戦いと歌と踊り以外まじでどうでもいいんだな。インド映画は有名どころしか観ていなかったのだが、こんなのが他にもあるなら観てみたい。

 

 話の内容自体は大してないので説明は省くが、BSでよくやっている量産型の西部劇に大量に資金をぶち込んだみたいな作品、銃撃戦の代わりにインド式CQCをやっているものだと想像してもらえれば。

 

 今作のヒロインはイギリス人の貴族の女性だったのだが、ヒロインは主人公(マッチョ)が好き、主人公(マッチョ)はこの女性から情報を聞き出したりして、さらわれた部族の子供を救出したいみたいなのが、言語が伝わらないことによって高度にアンジャッシュしていくのも面白かった。主人公も主人公でここら辺の情緒は謎なのだが、ヒロインにしても、自分の親戚を爆殺した主人公と笑顔でハグできる神経は分からない。人の心とかないのだろうか。「インド人を家畜のように扱うイギリス人は獣だ」からこいつら殺しても胸痛まないみたいな論理展開、さすがに考えが浅すぎる気もするけどこれのおかげで気兼ねなく戦闘シーンに入れるからいいよもう。

 なんらかのアニバーサリーで大規模なパーティをしているイギリス人街に猛獣を満載したトラックで乗り込み、獣を放って、兵士や貴族らしき人間を男女問わず殺し、庭に火を放っているのに、「俺たちが何をした」、「何もしていないだろ」とか被害者面できるのは色々とすごい。もうここら辺はお笑いだった。後ろで建物が燃えて、人が死にまくっているのに「俺たちが何をした」と悲壮感たっぷりに言うものだから、仰天する。ランボー2かな。

 あと、インド人って回復早いね。一晩で人を死に至らしめる蛇の毒をそこら辺に生えている葉っぱ煎じて飲ませただけで毒を完治させるし、足の骨が折れていても、少し寝れば派手な戦闘を行えるまでになるのはカートゥーン感あって好きだった。

 

 それと作劇上の面白要素もてんこ盛りなので、いわゆる映画好きもすごい楽しめると思う。チェーホフの銃とかもやってたね、弓を持っている神像がさりげなく(ばりばりに目立っていたけれど)登場し、ラストでこの弓を主人公の一人が使用するという展開。この際、衣装も戦神っぽくフォルムチェンジするのだが、ここからこいつが帰郷するまでずっとこの格好で居る。気に入ったの?と聞きたくなるような執着ぶりを見せるのだ。イギリス人とインド人の対比はめちゃくちゃ多かった。わかりやすく、鞭とか大きな壁と有刺鉄線とかもあって雑だけどポイントは押さえてくるので感心する。

 

 歌って踊って大団円

 

 インドはそれでいいのだ。