T.S.シュタイナー『日本見聞録』

名前は「TSしたいなあ」が語源です。ルドルフ・シュタイナーとT.S.エリオットは無関係です。

オナニーの語源になったオナン君の行動に「わかるってばよ」が止まらない

 旧約聖書の中に出てくるオナン君は、ある日兄が罪を犯して殺されて、元兄嫁タマルとの結婚を周囲に要求される。そして、いざコトに当たるとき、兄嫁タマルの中にソレを吐くことはなく、地面に垂れ流した。

 

わ…

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

わかるぅぅぅぅぅぅうぅ!!!ううっ、ひっぐひっぐ、うぅぅぅぅうぅ、えぐえぐ、うぁああああんんん!!!!お前絶対に童貞だろ!俺だよ!金閣寺の主人公も呼んで三人で鍋食べよう!!あっつい鍋食べよ!マジで!

 

 そう叫んだ中三の私は今も変わっていない。たぶん、女の子とそういう雰囲気になっても全力で逃げ出す気がする。いや、女の子にはめちゃくちゃ興味あるよ?お付き合いをするという体験だって一度はしてみたいし、えっちだってしてみたい。でも、たぶん逃げる。マリッジ・ブルーみたいなもの、限りなく透明に近いブルー。情けないったらない。

 情けないは情けないのだが、情けないなりに言い訳させてもらえば、つまり、我々は色々と考えてしまうのだ。情動のままに準備の整った女性に飛びつこうというときでさえ、そうして流される自分を客観視する理性が顔を出すのだ。

 ちなみに、旧約聖書の中には、その後の話も描かれており、死んだオナンに代わって、次にタマルの婿候補に挙がったのが、オナンの弟、三男坊のショタ(名前ではない)である。周囲からはおねショタが期待されたが、ショタとは子供ができず、タマルは娼婦を偽って、この三人兄弟の父ユダと関係を持つのだ。…こっわ、いやいやいやこっわ。泣くって、というか当時の私は泣いたよ。神話を今の価値観で見るのは云々とかはわかるけど、こわすぎるだろ。まあ、私は司教とかではないので、これら一連の話が何を表してるのかなんて分からないけどさあ、でも普通に分からない奴が読むとこわいよこれ。

 

 大学は高校に比べると存外暇で、散々時間を趣味に費やした高校生活から、更に趣味にかける時間が増えた。最近の生き甲斐は「バキ童」である。「刃牙道」ではなく、「バキバキ童貞」の方。「春とヒコーキ」の「ぐんぴい」に付けられたあだ名、というより自らを名付けた稀有な例と言える。

 高い頻度でアップロードされる彼の動画をとても楽しみにしている。そして、彼が童貞を卒業するとき、私はきっと彼を本当の意味で祝福できると思う。が、私は自分の身の振り方を改めさせられるのだろうか。

ペットを飼うこと

 最近、我が家(父、母、兄、私)では兄の強い希望から犬を飼おうかという話があがっている。兄はよく心得ているので、この話を私と父は暫く知らず、最も多くの金銭的また労働的な出資を行うであろう母を説得してから、生き物の世話というものには全く向かない鼻炎ぎみの我々に伝えたのだ(我々と言ったが、父には未だに情報が届いてなさそうであった)。

 

 私は動物があまり好きではない。いや、正確に言えば哺乳類のペットが苦手なのだ。馬術部で3年間馬の世話をしているときから感じていたことだった。幼稚園児、小学生だった当時の私と兄はカタツムリやらグッピーやらカブトムシやらを飼育(主な世話は母が)していた。しかし、哺乳類のペットを飼うことはなかった。そこそこ体格と脳の大きい生き物を飼うことには全く親しみがなかったという訳だ。私に至っては、5歳の頃、友人宅で子犬に尻を嚙まれて以降、犬というものが嫌いである。その後どうにか泣き止んだ私は、未遂で終わったが、その犬を殺そうと、食べさせてはいけないと言われていた人間用の飴をやったこともある、頭の中でこれは和解の印だったのだと、後で周囲の大人たちに叱られたときのための言い訳を考えながら。恐怖心は人を容易く狂化させる。

 

 ヒトは子供を育て、世話を見る生物である。人の世話がなければまともに生きていけないペットというものを飼おうとする欲望の根源にはこの生物的なものがあるのだと思う。これに打算はない。遺伝子のプログラミングによるものだ。超越的なものから与えられた倫理だ。カント的に正しいと言える。

 だが、ペットを飼っている人間、あるいはペットを飼いたいと考えている人間はそのペットに愛されることを期待している。それ自体は否定されるべきものでは全くないが、私には人とペットとの関係性が両者の打算(愛されたいと願う人間と相手に媚びることによって生存を目的するペット)を土台とした欺瞞に見えてしまう。奴隷美少女を購入する異世界転生主人公みたいな気持ち悪さが見えてしまう。そして、これこそが私の苦手意識の根源だった。

 

 私にはこんな具合で、理系らしく、生き物と生き物の関係が生物的な必然性を伴って映るのだが、文系の兄や母にはどうやらそうでもないようであった。そりゃそうか。というか道理があるのは兄と母の方だろう。

 私の周囲にもペットを飼っている家は多くある。保護犬・猫から血統種付きの何かを飼っている家まで多様である。中でも、よくお邪魔する家庭で対照的な両家がある。片一方の犬には来る度に酷く吠えられる。わざわざ走ってやって来て吠えるのだから気合が入っている。かと思えば、別の家の犬は、しっぽをふりふり寄ってきてべろべろ舐めてくる。前者は安心する。なわばりに入ってきたよくわからん気持ち悪い男を排そうと努めるその生き物の素直さが私の理解の中に入るからだ。人懐っこいペットには反対に不安になる。柳宗元の三戒の序『臨江之麋』を思い出してほしい。つまり「なんだこいつ」となるわけだ。

 しかし、ペットが人懐っこくあることはよいことだ。まず世話が楽である。その人懐っこさが何に由来しているかはわからない。しかし、多くの飼い主はそれがペット側が飼い主側へ示す愛なのだと疑わない。馬術部時代に少し思ったことがある。これは酷い偏見だが、馬の世話の仕方について異常なまでのこだわりがある人間というのは大抵一般の社会生活においてうまくいっていなかった。が、恋愛関係においてはサクセスフルだった。このことから私は一つの仮説を立てたのだ。

 「恋は盲目」という使い古された言い回しがある。これが真であるならば、「盲目になれない者は恋ができない」と言い換えることもできるだろう。盲目的にペットを愛せる人間たちはその意味で恋する資格を有しているのだ。次に、ペットの世話を好んで行う人間は子供の世話を行う可能性も高い。子供への出資の量は生物の同性内選択の観点からも高く評価され、より子孫が残しやすいと考えられる。また、盲目的に信じられるということは、彼ら自身の自信にも通じてくる。自信の高い人間というのはよく挑戦するようになる。よく挑戦する人間の方が挑戦回数の少ない者に比べて成功する可能性が高いというのは自明である。

 以上のことから、ペットを飼う人間は恋愛事に関して成功しやすくなるのではないかと私は考えた。

 

 風呂敷が広がりすぎたが、つまり、ペットを飼うことはいいことなのだと言いたかった。私は苦手だが。

まずは踊れ、話はそれからだ

 『RRR』観てきた。面白かったので感想をだらだら書こうと思う。

 三時間もあるので観る前は久しぶりの大作に若干げんなりもしていたのだが、全然飽きなかった。戦闘シーンは見ごたえがあったし、途中飽きるかなとか思っていたドラマパートも突っ込みどころが多くて普通に楽しめた。全体通して、二分の一が戦闘シーン、六分の一がドラマ、残りの三分の一が歌と踊りみたいな感じだった。インドナショナリズムというか、アンチブリ帝の革命思想みたいなのがカタルシスでごってごてに強調されててびっくりしたけど、面白かったから映画としては正義。

 

 

 

 

以降、ネタバレを含みます

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 インド最強!!!インド最強!!!インド最強!!!インド最強!!!インド最強!!!インド最強!!!インド最強!!!インド最強!!!インド最強!!!

 

 

 序盤からマスキュリニティーの塊みたいな描写が続いて、結構アツい。主人公たちが無双する度に、そこだ!やれ!うぉぉぉぉ!ってなってた。インド人を虐げてきたイギリス人を主人公がインド的な力で滅多打ちにしていくカタルシス満載のシーンばっかりだけどそれがいい。銃とか使わなくても、こいつら二人だけでどうにかなるじゃんと思うくらい強い。サメ映画のサメ側が主人公みたいな、いや、サメ映画の主人公はサメだから普通にサメ映画と一緒か。

 

 個人的に一番好きなのは、これからどうなるんだというところでぶっつり切って、話と話の間を雑に

 

INTERRRVAL

 

 

という文字列だけで五秒使って繋いでいるところで,観たときは吹いた。こいつら戦いと歌と踊り以外まじでどうでもいいんだな。インド映画は有名どころしか観ていなかったのだが、こんなのが他にもあるなら観てみたい。

 

 話の内容自体は大してないので説明は省くが、BSでよくやっている量産型の西部劇に大量に資金をぶち込んだみたいな作品、銃撃戦の代わりにインド式CQCをやっているものだと想像してもらえれば。

 

 今作のヒロインはイギリス人の貴族の女性だったのだが、ヒロインは主人公(マッチョ)が好き、主人公(マッチョ)はこの女性から情報を聞き出したりして、さらわれた部族の子供を救出したいみたいなのが、言語が伝わらないことによって高度にアンジャッシュしていくのも面白かった。主人公も主人公でここら辺の情緒は謎なのだが、ヒロインにしても、自分の親戚を爆殺した主人公と笑顔でハグできる神経は分からない。人の心とかないのだろうか。「インド人を家畜のように扱うイギリス人は獣だ」からこいつら殺しても胸痛まないみたいな論理展開、さすがに考えが浅すぎる気もするけどこれのおかげで気兼ねなく戦闘シーンに入れるからいいよもう。

 なんらかのアニバーサリーで大規模なパーティをしているイギリス人街に猛獣を満載したトラックで乗り込み、獣を放って、兵士や貴族らしき人間を男女問わず殺し、庭に火を放っているのに、「俺たちが何をした」、「何もしていないだろ」とか被害者面できるのは色々とすごい。もうここら辺はお笑いだった。後ろで建物が燃えて、人が死にまくっているのに「俺たちが何をした」と悲壮感たっぷりに言うものだから、仰天する。ランボー2かな。

 あと、インド人って回復早いね。一晩で人を死に至らしめる蛇の毒をそこら辺に生えている葉っぱ煎じて飲ませただけで毒を完治させるし、足の骨が折れていても、少し寝れば派手な戦闘を行えるまでになるのはカートゥーン感あって好きだった。

 

 それと作劇上の面白要素もてんこ盛りなので、いわゆる映画好きもすごい楽しめると思う。チェーホフの銃とかもやってたね、弓を持っている神像がさりげなく(ばりばりに目立っていたけれど)登場し、ラストでこの弓を主人公の一人が使用するという展開。この際、衣装も戦神っぽくフォルムチェンジするのだが、ここからこいつが帰郷するまでずっとこの格好で居る。気に入ったの?と聞きたくなるような執着ぶりを見せるのだ。イギリス人とインド人の対比はめちゃくちゃ多かった。わかりやすく、鞭とか大きな壁と有刺鉄線とかもあって雑だけどポイントは押さえてくるので感心する。

 

 歌って踊って大団円

 

 インドはそれでいいのだ。

スローライイフ・ファンタジー

 「フレデリック」(レオ・レオニ)を読んだ。絵本である。結構面白かった。同作者であれば「スイミー」の方が有名かもしれないが、意識高い系の本なので私は読まない。

 

 

あらすじ

 

 主人公フレデリックは働かない、年中無労の大ニート、口癖は「明日から本気出す」ならぬ「~を集めているのさ」、元気玉でも撃とうとしているのだろうか。他のねずみたちからは若干疎まれているが、気にしたような素振りもない。

 

 冬になると、しかし、フレデリックも寄生を続けてはいられない。飢えと寒さの極まったねずみたちの目には働きもしなかったフレデリックは仲間としては映らず、暖かな毛皮と脂の乗った肉の塊くらいにしか見えていなかった。これではいつ殺されるかわかったものでないと思ったフレデリックは一計を案じる…みたいな話。絵本のストーリーって子供のときは不思議に思わないけれど、今読むとちゃんと意味分からないね。

 

 【ネタバレ注意】

 

 

 フレデリックがこのとき使用したのは詩だ。人々の想像力に訴えかけ、空想と現実の皮膜を限りなく薄くしてしまう強力な力だ。こう考えると、「フレデリック」は成功した世界線の「狐憑」(中島敦)、と抽象化することも可能だろう。「フレデリック」作中での詩は、冬に凍えるねずみたちに春の暖かさを、飢えに苦しむねずみたちに満足を与えるなど絶大な効力を発揮する。しかし、注意すべきは、これが現実の問題を何一つとして解決していないということだ。その日は詩の力でどうにかなっても、冬はまだ続くかもしれない。一日誤魔化せたからといって、食料が増えたわけでも、寒さがなくなったわけでもないのだ。サルトル「アフリカの飢えている子供たちを前にして文学に何ができるのか」という文句を引用するまでもなく、我々は文学の無力さを思い知らされている。詩で腹が膨れるのは詩人だけだ。

 

 しかし、それでもダメ人間はフレデリックを目指すべきだ。といかこの道以外にない。

 

 才能があってもダメ人間は食いっぱぐれることもある。才能のない奴に関してはもはやいうまでもないだろう。そんな世知辛い世の中で、我々ダメ人間は文学という虚構にすがって精一杯生きる以外、生き残る術はないのだ。

 

 

 

だが諸君、悲観することはない!

我々には双葉杏がついている!!!

 

 

 

 

双葉杏

 

 ”とにかく手を抜きたがる性格であり、その怠けようからよくニートと呼ばれる。また、卯月と同い年(17際)ながら10歳女児並の身長という異例の妖精のプロポーションを誇る。体重に至っては卯月のわずか2/3、BMIにして15.5であり、スリーサイズはなぜかシークレット。その強力なキャラクター性と文字通り強力な攻撃性能が相まって、比較的高レートで取引されている。”

ニコニコ大百科より引用、双葉杏とは (フタバアンズとは) [単語記事] - ニコニコ大百科 (nicovideo.jp)

(アクセス日:2023年1月30日)

 

 

 くっそかわいい(憤激)

 

 

 

 まあ、どう生きたところでダメ人間には生きづらい世の中なのだ。適応力に欠けば集団からつまはじきにされ、ちょっと歪む。歪むと余計に適応しづらくなるので疎外が進み更に歪む。こうしてできるのがダメ人間だ。私はそういう自分のダメさに気付く度に吐きそうになる、メンタル糞雑魚なんでね。寝る前にこれが頭の中をぐるぐるするので結構辛かったりする。

 

 けれど、双葉杏はダメダメでいいと自分を肯定する。彼女は実際は結構頑張り屋さんなのだが、人のどうしようもないところをそれでもいいんじゃないと言い切ってしまう。この言葉の軽さに結構救われる。…あぁ、杏、好きぃ。

 

 ともかくとして、人間どこに行ったところでいつかは努力を強いられるものである。だから立派なダメ人間として精一杯努力から逃げていよう。人生の壁というやつが逃げ道の果てに現れるまでは。杏と一緒に飴でも舐めて布団にくるまって二度寝していよう。

ポケットはいつだって膨らませておけ

 人と話しているとき困るのが変に空く間である。親しい親しくないにかかわらず一つの話題について話し終えると、次の話題へ移るまでちょっとした読み合いが発生してどちらも喋らないままに過ぎる気まずい時間が生まれてしまう。気にならない方も居るとは思うが、私はめちゃくちゃ気にする。そして、どうにか話題を提供しようと悩む内に、その場の変なテンションのままに話し始め、様式美とばかりに失敗。その後、折に触れては思い出し叫びのたうち回っている。一度の失敗であれば笑い話にもなるだろうが、「歴史は繰り返す」などと言われるように、黒歴史は繰り返されるものらしく、これが断続的に起こるので後悔の種は尽きない。

 

あ”あ”っ!!!!!

羞恥心で自我を統合する精神の核が放射性崩壊するぅ!!

ぬわあぁ!!尊大羞恥心と臆病自尊心があ!!~~~♡お”っ…んっ♡ 失礼、かみました(八九寺真宵)。

 

閑話休題

 こういった不幸の連鎖を止めるために、私が活用しだしたのが…

 

 SHUNSOKU だ!!!

 

 「俊足」は青少年の走力上昇を目的とした両足に装着する補助器具で、その軽さと強力なバネの力から他社製品を寄せ付けない二十年来のロングセラー商品となっており、その使用期間は小学校高学年までが一般的とされている。と言うのも、春機発動後はおろか、性の梅が蕾をつける頃にはメインユーザーはダサさという模糊とした価値基準に従って「俊足」シリーズから足を洗い、残りは付和雷同の観念から同様にこれらを履かなくなるのだ。足の速さが主なセックスアピールとなり得た小学生という期間からより複雑で近代的な要素が絡んでくる中学・高校生の期間への変遷と共に苦楽を共にした最高の友とも薄情にも別れを告げてしまう。おお儚き(履かなき)友情よ。

 

 しかし、私は小中高の12年を通してSHUNSOKUを履き続けた。時にはいわれのない誹りを受けることもあった、表では理解者然として裏では見下しているという者だって多かった。PS4であれば、「トロフィーを獲得しました『俊足以外は履かないの?』」という通知が来ている頃だろう、いや、これは私の母親のチクチク言葉だ。

 

 …それでも、私は離れなかった、履き続けたのだ。

 

 これくらいの義理は通したのだから「俊足」を履き続ける私に走力以外の恩恵があって然るべきではないだろうか。つまり、俊足ユーザーという汚名を積極的に活用してもよいのではないか。

 

 童貞は三十年貫き通せば魔法が使えるようになるという。俊足ユーザーも同様に10年以上徹したならば、相応の種族スキルを得るのだ。

 

 固有アビリティー

 『俊足讃歌』

 

 その能力は、微妙な間を埋めるつなぎの話題提供。話に詰まった際、「実は小学校からずっと俊足履いてんだよね、これまじ最高」と唱えるだけで気まずさが霧散する。私は大学でもこれでやっていく。これは誓言であり制限である。

 

話は逸れたが、

 コミュニケーションに難を感じるならば、ある程度話の種というかネタというかをいくつか常備しておくと楽だよってこと。

 

 

ファンタジスタドールイブ

 『ファンタジスタドールイブ』いいね。内容としてはじめじめとした童貞の歪んだ思い出まとめみたいな感じで、不快は不快なのだが、否定できない自分の一部を突き付けられるような気分もあり、ぶっ通しで読んでしまった。文体はだいぶ違うが、ヒロイン像は森見登美彦作品に似ているかも。両者とも童貞夢小説なんでね。

 女性が好きだけど嫌い。こういう葛藤は多くの男性諸君も知るところだろうと思う。ネットで女叩きみたいなのをしている人とかは結構この部類に入るのではなかろうか。まあこういう葛藤を持ったことがないって言う奴はきっとこれはあまり楽しめないんじゃないかなあ(けっしてマウントではない)。私はゲームの方はやったことがないので、この前日譚とゲームのタイトルから人形愛の話なのかなと勝手に思っている。これが面白かったのでアニメをそのうち見ると思う。

 

我が子を食うヒルベルト

 

なぜこうなった

 生まれてこの方十数年、真面目に人間やってきた自信はあるのだが、気づけば思い描いていた現実とは違うものになっていた。兄が日々彼女とよろしくやっている中、部屋で変な音出しながら百合漫画を読んでいるのはさすがにどうだろうかという気もしてきた。致命的な間違いをおかしてしまったような焦燥感を覚える。ルート選択は誤っていない筈なのだが…私のトゥルーエンドは元からこうだったのだろうか。

 こんなものをネットに載せるためにブログを始めた訳ではないのだが、こんなものしか生み出せないので、こんなものばかりのブログになると思う。

爾今よろしくねげえやす