T.S.シュタイナー『日本見聞録』

名前は「TSしたいなあ」が語源です。ルドルフ・シュタイナーとT.S.エリオットは無関係です。

ペットを飼うこと

 最近、我が家(父、母、兄、私)では兄の強い希望から犬を飼おうかという話があがっている。兄はよく心得ているので、この話を私と父は暫く知らず、最も多くの金銭的また労働的な出資を行うであろう母を説得してから、生き物の世話というものには全く向かない鼻炎ぎみの我々に伝えたのだ(我々と言ったが、父には未だに情報が届いてなさそうであった)。

 

 私は動物があまり好きではない。いや、正確に言えば哺乳類のペットが苦手なのだ。馬術部で3年間馬の世話をしているときから感じていたことだった。幼稚園児、小学生だった当時の私と兄はカタツムリやらグッピーやらカブトムシやらを飼育(主な世話は母が)していた。しかし、哺乳類のペットを飼うことはなかった。そこそこ体格と脳の大きい生き物を飼うことには全く親しみがなかったという訳だ。私に至っては、5歳の頃、友人宅で子犬に尻を嚙まれて以降、犬というものが嫌いである。その後どうにか泣き止んだ私は、未遂で終わったが、その犬を殺そうと、食べさせてはいけないと言われていた人間用の飴をやったこともある、頭の中でこれは和解の印だったのだと、後で周囲の大人たちに叱られたときのための言い訳を考えながら。恐怖心は人を容易く狂化させる。

 

 ヒトは子供を育て、世話を見る生物である。人の世話がなければまともに生きていけないペットというものを飼おうとする欲望の根源にはこの生物的なものがあるのだと思う。これに打算はない。遺伝子のプログラミングによるものだ。超越的なものから与えられた倫理だ。カント的に正しいと言える。

 だが、ペットを飼っている人間、あるいはペットを飼いたいと考えている人間はそのペットに愛されることを期待している。それ自体は否定されるべきものでは全くないが、私には人とペットとの関係性が両者の打算(愛されたいと願う人間と相手に媚びることによって生存を目的するペット)を土台とした欺瞞に見えてしまう。奴隷美少女を購入する異世界転生主人公みたいな気持ち悪さが見えてしまう。そして、これこそが私の苦手意識の根源だった。

 

 私にはこんな具合で、理系らしく、生き物と生き物の関係が生物的な必然性を伴って映るのだが、文系の兄や母にはどうやらそうでもないようであった。そりゃそうか。というか道理があるのは兄と母の方だろう。

 私の周囲にもペットを飼っている家は多くある。保護犬・猫から血統種付きの何かを飼っている家まで多様である。中でも、よくお邪魔する家庭で対照的な両家がある。片一方の犬には来る度に酷く吠えられる。わざわざ走ってやって来て吠えるのだから気合が入っている。かと思えば、別の家の犬は、しっぽをふりふり寄ってきてべろべろ舐めてくる。前者は安心する。なわばりに入ってきたよくわからん気持ち悪い男を排そうと努めるその生き物の素直さが私の理解の中に入るからだ。人懐っこいペットには反対に不安になる。柳宗元の三戒の序『臨江之麋』を思い出してほしい。つまり「なんだこいつ」となるわけだ。

 しかし、ペットが人懐っこくあることはよいことだ。まず世話が楽である。その人懐っこさが何に由来しているかはわからない。しかし、多くの飼い主はそれがペット側が飼い主側へ示す愛なのだと疑わない。馬術部時代に少し思ったことがある。これは酷い偏見だが、馬の世話の仕方について異常なまでのこだわりがある人間というのは大抵一般の社会生活においてうまくいっていなかった。が、恋愛関係においてはサクセスフルだった。このことから私は一つの仮説を立てたのだ。

 「恋は盲目」という使い古された言い回しがある。これが真であるならば、「盲目になれない者は恋ができない」と言い換えることもできるだろう。盲目的にペットを愛せる人間たちはその意味で恋する資格を有しているのだ。次に、ペットの世話を好んで行う人間は子供の世話を行う可能性も高い。子供への出資の量は生物の同性内選択の観点からも高く評価され、より子孫が残しやすいと考えられる。また、盲目的に信じられるということは、彼ら自身の自信にも通じてくる。自信の高い人間というのはよく挑戦するようになる。よく挑戦する人間の方が挑戦回数の少ない者に比べて成功する可能性が高いというのは自明である。

 以上のことから、ペットを飼う人間は恋愛事に関して成功しやすくなるのではないかと私は考えた。

 

 風呂敷が広がりすぎたが、つまり、ペットを飼うことはいいことなのだと言いたかった。私は苦手だが。